人間

コミュニケーションというものに感じていた困難さは、実はさほど大したものではなかった。というのも、相手の肩書やその他属性を意識の外に追いやって、目の前の相手のみを見て会話をすれば、その相手との会話におけるチューニングを合わせることはさして困難なことではない。滑舌が悪すぎてはじめは聞き取るのが困難だった友人との会話も、数ヶ月も付き合えば何を言っているのか特に意識せずとも分かるようになる。人間には話し方にもそれぞれ癖のようなものがあって、それはたとえば文の構成であったり、口調や言葉の使い方であったり、各個の音の特徴であったりする。そこをフラットに一つ一つ捉えていけば、全く理解できない相手などというものはおそらく存在しないのだろう。思考や言語のプロトコルは各個人が固有に持つものだが、柔らかいエミュレータのようなものを同時に持っていて、それが細かな差異を含めて埋めてくれる。それをどれだけ柔軟に使えるかが結局のところ、コミュニケーションというものの要なのだろう。だったら、相手を何らかのレッテルだけで判断していては、そのエミュレータがうまく間を埋めてくれないのだ。そこは用意した解答通りにいかないものなのだから。自分が同属性の他人とは違うのと同じく、相手も属性だけで判断できるものではない。
自閉症スペクトラムと呼ばれる発達特性がある。いわゆるアスペルガー症候群などを内包する概念だ。世間一般では「話の通じないやつ」だの「空気の読めないやつ」だの言われるあれである。おそらく自分もその傾向を有しているという自覚はある。しかし、同様の特性を持っているだろう人たちとは、驚くほどコミュニケーションが他よりスムーズにできるのだ。以前、自閉症というのは障害ではなく、定型発達とされる人たちとは異なった思考パターンを有するにすぎない、というのを聞いたことがある。自分がその傾向を持って生きていても、それは納得の行く解答として理解できた。
「定型発達」と「自閉症スペクトラム」と線引きしてしまうのではなく、フラットに相手を理解しようという努力を怠らなければ、さほど障害にはならないのかもしれない。肩書や病名よりも、目の前の相手こそが、一番確かなものなのだから。