歯車の欠損が噛み合ったらどうなる?

欠けた歯車がなぜよくないのか。
それは動作に支障をきたすから。

じゃあ、欠けた歯車同士でうまく噛み合ってしまったら、それは果たして故障と呼んでいいのか。綺麗な歯車のままでは得られなかった新たな動作をしても、それを誤作動として排除できるのか。

ずれた歯車がたまたまはまってなんとなくいい感じに動いてくれるのなら、それもまた人生だと僕は思う。裏の裏は表だ。

初夏の夜に流れる川の静けさ

もう五月も終わろうという曇り空の夜だ。何を思ったのか分からないが、僕は河原町を歩いていた。あらゆるものがやけに眩しく感じられることに気付いた僕は、歩いているだけで頭を抱えたくなってしまったのだ。何かに集中しよう。そうしてゲームセンターの音楽ゲームコーナーへと足を運んだ。そのけたたましいまでの雑音がどうにも心地よく感じられたのは、無駄な思考を追い出してくれたからだろうか。

しばらくして、ゲームセンターを後にした。はじめはしっかりと踏み出せていた足も徐々にそのスピードを緩め、しまいには止まってしまった。夜を仰いで立ち尽くす僕にそれでも微笑みかけてくれたのは、君の送るメッセージだった。再び歩き出した僕は、川原のベンチへと向かった。なぜそこを目指したのかは分からない。でもそこに腰を下ろして顔を上げた途端に涙がこぼれてきた。きっと泣きたかったのだろう。自分の好きな景色を見たかったのだ。初夏の夜、静かな川辺、遠くの灯、曇った夜空、その景色のすべてが、僕の心に鮮やかな色をさしてくれた。

心が震えて泣いてしまったのは、きっと君のせいだ。

歯車の色は

あの日外れた歯車はいま、どこに転がっているのだろう。拾われる時をどこかで独り寂しく待っているのだろうか。別のなにかに拾われてどこか知らないところでまた歯車として動いているのだろうか。あるいは、外れた時のひびで、もうとっくに壊れてしまっているのだろうか。
分からない。どうしたらいいのか分からない。なくした歯車を探せばいいのか。代わりの歯車を入れればいいのか。それとも、なくても動けるならこのままにすればいいのか。相変わらず目に痛いほど極彩色の世界に、僕だけがモノクロームで立っている。
分からない。自分の色が分からない。自分がどんな色で立っていたか分からない。自分がかつて持っていたはずの色が何だったか分からない。色をもって立っていたということだけは覚えている。でも、思い出せるのはそれらが全部混ざったような黒だけだ。

……あれ、何を考えてたんだっけ。まあいいや。

大人になるということ

僕はきっと大人になるということをどこか勘違いしていたのだろう。それはたとえば思慮深く行動することを、人の目を恐れることと取り違えていたこと。それはたとえば忍耐強くなることを諦めがよくなることと取り違えていたこと。それはたとえば人を頼りすぎないことを人を信じないことと取り違えていたこと。数え挙げればきりがない。取り違えた結果、大人らしさとは真逆に泣き虫な子供のようになってしまった。大人になるとは決して自分を殺すことではなかったはすなのに、挙げただけでも、人の目にビクビクして、すぐ諦めて、人を疑って、とてもじゃないがまともな大人のやることとは言い難い結果になってしまった。明らかにかけ違えてしまった。俯いてばかりいて、それを見通すことすらできなかった。前を向けば、顔を上げれば、すぐに分かったことなのに、そんなことさえ見過ごして、泣いてばかりいた。見えるものも見ずに、勝手に真っ暗な世界にいた気になっていた。勝手に不幸になっていた。でも、この美しい世界をもう一度まっすぐ見据えれば、それは間違いだと少し信じてみる気になれた。思慮深く行動することは色々な場合を考えて能動的に行動を選択することであって、決して行動を躊躇することではない。ある程度考えたらむしろ動き始めて、あとはなんとかなる、ともう少し気楽にいけばいいんだ。考えつつももっと動いて、失敗だって糧にして、むしろ粘り強く生きる。かつての自分はできていたこと。余計なことばかり考えないで、今できることからやっていこう。

心の抑揚

「世界の彩り」なんていうものは結局のところ、自分の心の抑揚に支配されているのではないか、ということに思い当たってからというものの、極彩色の世界に自分はどう対峙すればいいのか、態度を決めあぐねている。世界が極彩色に見えるくらいなのだから、たまには炭酸水の水面のように弾けてやるのも悪くない、そんなことを思いつつも、いまいちそうしきれない自分もいる。もとより、気付く前の自分の振る舞い方を思い出せない。ああ、自分は違う色に染められたんだなあ、そこまで考えて、はじめてそう理解した。はじめてそう理解できた。

笑顔

人の笑顔というものはいいものだ。元気づけられる。

もちろん、「嗤う」顔ではない。「笑顔」のことだ。

あんな、闇を足に纏わりつかせてくるような「嗤う」顔のことを笑顔だなんて呼ぶことはない。紛らわしいなあ、どうして楽しさを表現するのも嘲りを表現するのも同じ「わらう」という言葉になってしまったのだろう。こういうときに、言葉というものは不便なものだと思うのだ。後者には一応「嘲笑う」という言葉があるが、日本語において「わらう」という言葉はどちらの場合にも頻繁に使われるので、あまり区別に寄与していないように思う。それとも、同じ言葉で表される通り、両者に本質的な区別は必要ないのかもしれない。勝手に僕が区別したがっているだけで、本当は表出としては同じなのかもしれない。たしかに直接間接の違いはあれども両方とも「快」の感情表出なのだから。

それでも自分はこれらを別のものとして扱いたい。他人の失敗や落ち度、欠点や不幸を「快」と感じるような感性は望んでいないからだ。楽しいことをして、一緒に笑い合いたいのだ。子供っぽいことを言っているとは分かっている。それでも僕は、人の不幸を悲しみ、人の幸せを喜ぶ、そういった瑞々しさをもって生きていきたい。人を笑いものにするような悪い自分なんていらない。

夏の青空を一滴だけ落としたような笑顔で、いつまでも生きていきたい。それが僕の唯一絶対の願いだから。

レゾンデートル

自分の存在を定義することは自分自身でできることではないのだろう。
関わる人間の数だけ、「自分」は彼らの中にある。
関わる人間の数だけ、「彼ら」は自分の中にある。
だとしたら。
「自分」とは人々に映った像の集合なのだろうか。
自分自身は頑としてここにいるというのに。
不思議なものだなあ。