人間

コミュニケーションというものに感じていた困難さは、実はさほど大したものではなかった。というのも、相手の肩書やその他属性を意識の外に追いやって、目の前の相手のみを見て会話をすれば、その相手との会話におけるチューニングを合わせることはさして困難なことではない。滑舌が悪すぎてはじめは聞き取るのが困難だった友人との会話も、数ヶ月も付き合えば何を言っているのか特に意識せずとも分かるようになる。人間には話し方にもそれぞれ癖のようなものがあって、それはたとえば文の構成であったり、口調や言葉の使い方であったり、各個の音の特徴であったりする。そこをフラットに一つ一つ捉えていけば、全く理解できない相手などというものはおそらく存在しないのだろう。思考や言語のプロトコルは各個人が固有に持つものだが、柔らかいエミュレータのようなものを同時に持っていて、それが細かな差異を含めて埋めてくれる。それをどれだけ柔軟に使えるかが結局のところ、コミュニケーションというものの要なのだろう。だったら、相手を何らかのレッテルだけで判断していては、そのエミュレータがうまく間を埋めてくれないのだ。そこは用意した解答通りにいかないものなのだから。自分が同属性の他人とは違うのと同じく、相手も属性だけで判断できるものではない。
自閉症スペクトラムと呼ばれる発達特性がある。いわゆるアスペルガー症候群などを内包する概念だ。世間一般では「話の通じないやつ」だの「空気の読めないやつ」だの言われるあれである。おそらく自分もその傾向を有しているという自覚はある。しかし、同様の特性を持っているだろう人たちとは、驚くほどコミュニケーションが他よりスムーズにできるのだ。以前、自閉症というのは障害ではなく、定型発達とされる人たちとは異なった思考パターンを有するにすぎない、というのを聞いたことがある。自分がその傾向を持って生きていても、それは納得の行く解答として理解できた。
「定型発達」と「自閉症スペクトラム」と線引きしてしまうのではなく、フラットに相手を理解しようという努力を怠らなければ、さほど障害にはならないのかもしれない。肩書や病名よりも、目の前の相手こそが、一番確かなものなのだから。

残暑

立秋はもう過ぎたはずだ。日付を確認したわけではないが、たしかこれくらいの時期だった。今は残暑というわけだ。自分がこれまでに過ごしてきた夏を思い返せば、残暑と呼ばれる時期に入ってからのほうが明らかにそれ以前より暑かったことが多かったように思うが、今日は比較的涼しかった。日中も先月ほどの息苦しさがなく、夕方に至っては少し肌寒さを感じたくらいだ。それでも自転車を走らせれば汗が垂れる程度の熱はもっていた。なるほどこれを残暑と昔の日本人は呼んだのだろうか、なんて一人納得していた家路だった。
しかしまあ、先月があまりにも暑すぎたので感覚が麻痺しているのだろう。今の室温は28℃だが、同じ28℃でも38℃に晒された後の28℃だ。わけが違う。人間というものは絶対的な感覚以上に相対的な感覚を持つものだと、文字通り肌で感じたのであった。

眠れない夜。

眠れない夜。
人はそれを、思い詰めることがある、だとか、気分がすっきりしない、だとか、そういった事柄の表象としてとらえているように思う。
しかしそれはあくまで連想されるだけで、別に必要条件でも十分条件でもない。何を思い詰めるでもなく、ただなんとなく気が付いたら夜が明けていた、なんていうことも、少なくとも自分は多々経験してきた。今とてそうだ。何か悩みがあったわけではない。むしろあるのかも分からないくらいに不安が漠然と薄すぎて、具体的なもので悩んでみたいとまで思う始末だ。後悔していることといえば、この土日で何の勉強も進められていないことくらい。存分に楽しんだのだからそのくらいはまあいいだろう。筆が乗らないというのも、先日の会話で原因が分かって、今リハビリをしているところだ。
何が不安なのか、見つけたらまた不安になるだけなのに、何が不安なのかが分からないせいでまた不安になる、なんていう滑稽な事態に陥っている。不安に思うことを、むしろ心は求めているのではないかと言われても信じてしまいそうだ。不安なんていうものを、望ましくないもの、とはっきり決めつけてしまっているからこれが滑稽だと思えるのだが。恐怖とはまた違う不安という感情は処理に困るという点で自分にとって望ましくない。別に何かを恐れているつもりはないし、何か怖いものがそこにあるわけでもないのに、どうしてこうも一挙一動を鈍らせる程度に気を張らないといけないのだろうか。
ここまで書いて、こんなことを考えているから眠れないのではないかということにようやく思い当たった。遅すぎる。しかし眠れないものは眠れないのだから仕方ない。ブログを開設しようなんて思い立ったのも、眠れない夜の気まぐれなのだが、気まぐれにでもやろうと思えることなんだから何かの楽しみにはなるだろう。そういえば今はもうないもののかつて中学生頃だったかにもブログを書いていた。あの頃はなぜだか律儀に毎日何かを書いていた記憶がある。さすがに今となっては毎日書くなんていうほどの気力もないだろうが、時折思い出したように何かを書くようにはしていこうと思う。物書きのリハビリはここでもやれるはずだから。